寺田千代乃(5)夫との出会い
「独立して仕事」夢に共感 バイクツーリングに同行
「小柄なのに、はじけるように活発な生徒で校内でも目立っていた」。私が経営者として新聞などに取り上げられた頃、こんな感想をメディアに話す中学時代の男子の同級生がいた。警察官になった別の男子同級生からは「学校でいじめられそうになった時に駆け付けてくれて、助けてもらったよ」と感謝された。
小学生の頃から男の子とよく遊んでいたし、中学では剣道部唯一の女子部員だったから、女子より男子と一緒の時の方が多かったかもしれない。といっても、異性として特に意識するわけでもなく、スポーツや遊びを一緒にする仲のいい友達だった。
そのつながりで知り合ったのが、2歳年上で後に夫になる寺田寿男だ。同級生の男の子の友人でバイク好きな少年グループの一員だった。自転車にエンジンを取り付けて原動機付き自転車にしてしまうほど機械いじりが大好きで、行動力旺盛。就職後の休日、グループのツーリングによく連れていってもらった。
バイクの後ろに乗ってつかまり、カーブが多くアップダウンのある旧阪奈道路などを走る。三重県の鈴鹿サーキットにレースを見に行ったこともあった。バイクレーサーを夢見ている少年もいて、寺田も一時はその1人だった。
だいたいグループで遊んでいたが、たまに2人で難波や心斎橋に行き、映画を見たり、ショッピングを楽しんだりした。彼は高校を中退して姉の嫁ぎ先の鉄工所で働き始めていた。当時から独立心が強く、鉄工所の後継ぎにはなれないので、何か自分でやれる仕事をしたいと言っていた。
笑ってしまう苦い思い出は、年末の餅つきアルバイトだ。彼の実家が経営する駐車場の一角に、借りてきた臼を置き、近所から持ち込まれた餅米を代金をもらって友人とつくという。私は餅を小分けする作業などを手伝った。当時は正月用の餅を売る店が少なく、こういう商売があった。
うまくいけばよかったのだが、餅を置くために家から木の戸を外して持ってきたため叱られ、ひびが入っていたのか臼が最後の方で割れてしまった。その前についた餅には石のかけらが入ってしまったらしく、クレームが来るわ、臼は弁償しなければならないわ、散々な結果になった。
そのリベンジではないが、餅つきは会社の年末の重要行事になっている。大阪府大東市の旧本社の敷地に臼を置き、大量の餅をついている。
昔の同級生らは、私を「千代乃」と認識している。呼びやすいのか、山本姓の人が複数いて区別するためだったのか、先生も含めだいたい昔から「千代乃ちゃん」「千代乃さん」か「千代乃」だった。親しくない人からは名前ではなく、姓だと思われていた。
名付けたのは父方の祖母だが、若い頃は古めかしい感じで好きになれなかった。その後、年齢が追いついてきたのか次第になじんできた。経済界の男性の友人からも「千代乃さん」と呼ばれる。昔は「乃」で終わる名前はめったにいなかったが、最近は珍しくなく、会社にも何人もいる。
寺田とは交際したというより、独立して仕事をする夢を聞いて共感し、関係が近づいた気がする。私がインテリアショップで働き続けていた頃、彼が転機を迎えた。新たに一歩踏み出す条件が「所帯を持つこと」とされたのだ。そこから私の人生も大きく変わっていくことになる。
(アートコーポレーション名誉会長)
アートコーポレーション名誉会長の寺田千代乃さんは、引っ越しを専業とする日本初の会社「アート引越センター」を大阪で立ち上げた女性経営者です。荷造りご無用や輸送中の家財殺虫など、「あったらいいな」というサービスを次々に打ち出し、日本の引っ越し業をけん引しました。小さくても一流を目指した寺田さんが、波乱に満ちた半生を振り返ります。