寺田千代乃(1)引っ越し業を創る
「私ならできる」言い聞かせ 顧客目線で育てた事業
8月の夏休みをほぼ大阪で過ごした。例年、長野県の蓼科高原に滞在し、役員、管理職らとゴルフやバーベキューを楽しむのが恒例になっているが、今年は断念した。
昨年12月、43年務めた社長を退いた時に思い描いていた今年の日々は、新型コロナウイルスによって随分変わってしまった。持ち株会社の社長は続けているので経営から退いたわけではないが、時間に余裕ができるので、これまで行けなかった所に行き、したいことをしようと思っていた。それが、まさか在宅で仕事をする日が増えようとは。
4月24日に夫婦2組で会食懇談する予定を組んでくださったオムロン名誉顧問の立石義雄さんが4月21日に新型コロナ感染症で亡くなられたのも大きなショックだった。
8月下旬から9月上旬に開いてきた社内の引っ越し技術コンテストも今年は中止にせざるを得なかった。全国18地区の予選を通過した2人一組のペアが、接客対応から食器の梱包、重い家財の運搬、荷物の積み込み、運転、窓吊(つ)りの技術を競う催しである。
昨年は9月3日に大阪府豊中市の北大阪支店で開き、応援団の社員や家族まで含めると全国から700人ほどが集まって盛り上がった。窓吊りは家具を2階のベランダなどに引き上げる業界用語で、玄関からは入らない大きなタンスがある場合などに用いる。食器の梱包は箱に隙間なく上手に詰めると安全に運ぶことができる。狭い道路を通る際の運転なども含め、日本で引っ越しを適切に行うためには様々な技術が必要になる。
会場には女性が多かった。出場ペアの1人は女性という規定を設けており、2人とも女性の組もあった。私は競技を見て回り、社員や応援の家族と話を交わした。どのペアも訓練した技術を、真剣に、懸命に披露していた。同僚の社員らの応援はとても熱い。その一体感に社外の人は驚く。それが少し誇らしく、うれしい。ラグビー・ワールドカップ日本代表の活躍で広まった「ワンチーム」という言葉を随分前から会社のスローガンのように使ってきた。
私たちが創業するまで日本の引っ越しは運送会社が片手間でする仕事だった。家財を文字通りトラックで運送するだけ。依頼者が荷造りし、運ばれた荷を片付ける。現場に女性は1人もいなかった。
社員11人、トラック12台で引っ越し専業の仕事を始めた時から、自分たちは運送業ではなくサービス業だと思ってきた。運送以外の部分をいかに工夫するか。主婦の求めるサービスをうかがい、その目線で考えると、アイデアが浮かぶ。開発した商品やサービスはやがて業界のスタンダードになっていった。
誘われて30代で関西経済同友会に入り、代表幹事に就任したほか、関西経済連合会の副会長を14年務めた。経営のイロハも分からずに創業し、「同友会ってどういう会?」と聞いて笑われた。何も知らないから怖い物知らずで挑戦できたのかもしれない。そのほかにも最年少、女性初、という言葉が付く役割を数多く経験させていただいた。
組織が大きくなっても小さな頃の良さを失いたくないと思って歩んできた。順風満帆ではなく、何度も危機に直面した。くじけそうになった時は「私ならできる」と自分に言い聞かせた。コロナ禍で先が見えない今、少しでも読者の参考になればという気持ちで私の足跡を記してみたい。
(アートコーポレーション名誉会長)
アートコーポレーション名誉会長の寺田千代乃さんは、引っ越しを専業とする日本初の会社「アート引越センター」を大阪で立ち上げた女性経営者です。荷造りご無用や輸送中の家財殺虫など、「あったらいいな」というサービスを次々に打ち出し、日本の引っ越し業をけん引しました。小さくても一流を目指した寺田さんが、波乱に満ちた半生を振り返ります。
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