中嶋常幸(21)父の死
張り合いなくし心に穴 迷った末、死に目に会えず後悔
1993年4月29日、母・ナミ子が心筋梗塞で亡くなった。65歳。私が父の意に反することをすれば「おまえの教育が悪い」と怒鳴られ、たたかれる姿も嫌というほど見てきた。子どものためにずっと耐え苦労してばかり。試合中の私は桐生にとんぼ返りで葬儀に出たが「おふくろ、これでやっと楽になれるな」と思い、なぜか涙は出なかった。
9月の全日空オープン(札幌GC由仁)で勝つと、新聞には「母にささげる優勝」と書かれた。最終戦の日本シリーズも制し、賞金ランク3位。90年代前半は「打倒ジャンボ」が合言葉で私もジャンボをまねしてティーを高くして、飛距離の出るドローボールを打ったりもした。技術、肉体とも完成され、死角がない尾崎将司選手を破り、賞金王に返り咲こうと燃えていた。
2年連続賞金ランク3位で迎えた95年の1月、弟の篤志が訪ねて来て「兄貴、話がある」と言う。「おやじが肝臓がんで医者に余命3カ月と告げられた」。憎まれっ子世にはばかる、じゃないが、あのおやじが死ぬなんて信じられない。「本当なのか」と聞くと「おやじは『常幸には言うな』というけど、弟として話さないわけにはいかない」。
妻や子どもに「早く会いに行って」と言われたが「死にやしない。いいよ」と高をくくり見舞いには行かなかった。中島家の長男として、二度とうちの敷居をまたぐことはないと思い、78年に実家を出た。両親に2人の孫の顔を見せに帰るのはせいぜい年に3回ほど。たいていは何かのついでだった。プロ入りして父が観戦に来たのも、会場が実家から近い数試合だけ。青木功さんが勝った80年関東オープン(埼玉)が最後だった。
ずいぶん疎遠になっていたとはいえ、やはり父の病状は気になる。3月の開幕戦(鹿児島・祁答院GC)で、たまたまレストランに1人でいた杉原輝雄さんを見かけ、声をかけた。「いいですか。ちょっと話が……」。杉原さんはプロデビューしてから間もない頃、「ゴルフを一生懸命やってるから」とかわいがってくれ、私もたまに「ゴルフ界のドン」に相談することがあった。
「なんや?」。「実はおやじが余命3カ月で。でも俺に会いたくない、知らせるなと言ってるし。どうしたものかと思ってるんです。円満に家を出たわけじゃないし、いまさら長男面して帰れないですよ」。すると真顔で「バカもん。早く行かんか!」と怒鳴られた。大会直後の月曜日、入院先の順天堂大学病院に行くことにした。
午前10時に父を見舞うつもりが、所用で2時間ほど出発が遅れた。家族4人、車で首都高を飛ばし東京ディズニーランドを過ぎた頃、弟の和也から電話が入った。「おやじが死んだ」。数十分早ければ間に合ったのに。病室で姿を見て「もっと早く来ればよかった。悪かった。許してくれ」と抱きつき、泣き崩れた。
おふくろに手を上げるなど嫌な思い出は山ほど、愛憎半ばというか、むしろ嫌悪する感情のほうが強かった。しかし死に目にも会えず、感謝の言葉もかけられず、親不孝だという思いはぬぐえない。父の死で、つっかい棒がなくなった。「見たか、俺は頑張ってるぞ」。大勢のファンや友人もいるが、私の張り合いはおやじだったのだ。ぽっかり、心に穴があいた。長く暗いトンネルへの入り口だった。
(プロゴルファー)
プロゴルファーの中嶋常幸さんはマスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロの海外メジャー4大会全てでトップ10入りしています。厳しい父親の教育を交えながらゴルフ人生をたどります。