中嶋常幸(7)プロ転向
デビュー戦 妻との出会い 42位、甘く見ていた自分戒め
74年日本オープンのローアマでひと区切りをつけ、父に「プロになりたい」と訴えた。わが家では経済的に限界だと感じたからだ。父にすれば、アマとしてプロの試合に勝ってほしかっただろう。ちょっと寂しそうに「わかった」とうなずいた。
年内にプロ転向を表明。翌年5月のプロテスト(茨城・セントラルGC)では5アンダーのトップで難なく合格、尾崎健夫選手ら同期生は「七人の侍」と言われた。当日は尾崎将司選手が「スーパーカー」のランボルギーニに乗って、弟の応援に来ていた。人けの少なくなったレストランで、傲岸不遜な父がジャンボの席に足を運び「息子がプロになりますので、よろしくお願いします」とあいさつしたのには驚いた。
美津濃(ミズノ)と契約、合格者に半年間課された月に1度の研修会(月例会)に出続けたが、8月の研修会(埼玉・越生GC)で"事件"が起こった。スコアが芳しくなかった私に父が居残り練習を命じ、選手全員がクラブハウスに入っても「まだ練習しろ」。同会では上位選手に賞金が渡され、表彰式がある。先輩プロに「いい加減にしろ」と3回くらい促されてやっと2階に上がると、100人ほどの先輩プロたちが「何だこいつは。新人のくせに」というような目を向けてきた。その瞬間、私の後ろを歩いていた父が「いいか、このへんにいる十把ひとからげのプロになってどうする!」。独特の斜に構えた口調で吐き捨てた。
反論する選手は誰もいなかったが、表彰式後に金学栄プロが「おやじさん、どうかさっきの言葉を息子に忘れさせないでほしい」と話しかけてきた。父が喜んだことといったら。「ああいうプロがいるんだ。頑張らなきゃな」。12月の日本プロゴルフ協会(PGA)の認証式では、中村寅吉先生から「いろいろあったようだな。でも頑張れよ」と声をかけられ、晴れてプロの一員となった。
デビュー戦は76年5月のペプシウィルソン(山口・宇部CC万年池)。たまたま私と同組の選手の応援に来ていた妻の律子と出会ったのが、このとき。将来の伴侶になるのでは?と運命的なものを感じた、思い出深い試合だ。
「食事とトイレ以外はゴルフ」「世界一が目標」「予選で落ちることはない」と発言していたが、ふたを開ければ42位。アマ時代に何度かツアーに出ていたから、21歳の私はプロの世界をちょっとなめていた。「そんなに甘いもんじゃないぞ。頑張っていかないと」。いい戒めになった。
当時は試合が終わればマージャン、パチンコ、映画や将棋。ラウンド後に練習をする選手はいなかった。練習場の球は真ん中に赤線が入った「団子ボール」。8月の関東プロ(秋田・男鹿GC)で、ゴルフ場の人に「練習させてください」と言ったら「えっ、練習するんですか?」。その試合は村上隆さんが優勝、2位に入った私はインタビューで「2、3年頑張れば追いつける気がする」と答えた。キャディーバッグを担ぎ夜行列車で翌日帰宅すると、父がいきなり「ここに座れ」。険しい表情で「何だ、この記事は。明日やったら勝てます、とかなぜ言えない。おまえはそれでも勝負の世界で生きる勝負師か」と説教された。「惜しかった」とねぎらわれるかと思ったのに。いかにもおやじらしい。
(プロゴルファー)
プロゴルファーの中嶋常幸さんはマスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロの海外メジャー4大会全てでトップ10入りしています。厳しい父親の教育を交えながらゴルフ人生をたどります。