中嶋常幸(3)ゴルフに熱中
父が手ほどき 楽しい時間 「天才少年」地元では有名人
1957年のワールドカップ(埼玉・霞ケ関CC)で中村寅吉さんが個人・団体優勝を果たし、第1次ゴルフブームが巻き起こった。数年後には地方にも波及。"発明"好きな父・巌は、ボールが自動的に出る練習器具までつくった。
自宅の庭先にネットを張り、試打する姿を見て興味を覚え、留守の時に3番アイアンでボールをひっぱたいていた。いつの間にか家に戻った父に怒られるかと思ったら「やってみるか?」。小学4年の私は即座に「やる」。野球で隠し球に腹を立て、サッカーでは顔面にボールが当たり嫌になったが、ゴルフは性に合ったのだろう。父にグリップからアドレス、スイングと基本を教わり、すっかり夢中になった。
クラブを握ってまだ日が浅い5月、父に連れられ、中島飛行機の飛行場跡地の太田ゴルフ場でコースデビューした。雨上がりの朝のもわっとしたゴルフ場の独特の空気、芝の香りは今も忘れない。最初のハーフが「59」だったのを覚えている。母が握ったおにぎりを持って一緒にラウンド。行き帰りの車中では、その日の反省をし「どうやったらうまくなるか」と会話を交わした。中3で「スパルタおやじ」に変身するまでは、父子2人の楽しい時間が確かにあった。
西中学校に入ると朝の登校前に練習、放課後はまっすぐ帰宅し4時から夜10時頃(ごろ)まで打ち込んだ。練習は父に強制されたわけではない。ただケガを恐れたのか、運動会には「出ることはない」と言われた。学校までは家から走って2分。運動会の軽快な音楽を聞きながら一人黙然、ボールに向かっていた。中2でパブリックコースだった高崎カントリークラブのクラブチャンピオンになり、「天才少年」として当時の人気番組「小川宏ショー」にテレビ出演。学校や地元でちょっとした有名人になった。
私のゴルフ人生にとって、太田ゴルフ場で女子プロ1期生の大山文代さんに出会ったのが良かった。技術的なことだけでなく、同伴競技者がパッティングする際に立つ位置などマナーやエチケット、立ち居振る舞いについて教えてもらい、練習も好きにやらせてくれた。コンペに参加して知り合いになった岡部チサンCCの支配人にもお世話になった。同年代のジュニアは少なく、着古したウエアを見れば経済的に裕福じゃないのはわかったはず。セルフプレーで1000円足らずでラウンドさせてくれた気がする。名前は覚えていないが「あいさつなど、礼儀をちゃんとしなさい」「目土やバンカーならしもしっかり。回る前よりきれいに」と教えられた。早くに亡くなって私も葬儀に参列、ひつぎに手向けの花を入れ、石でくぎを打たせてもらった。
試合に出場するため、中1、中2は年に二十数日、中3では55日学校を休んだ。授業中も教科書を読むふりをしながらゴルフ雑誌を広げ、パーマーやニクラウスの連続写真を見ていた。ただ理解してくれる先生もいた。中3の担任の斎藤康郎先生は、級友の前で「勉強を一生懸命やってるのと変わらないんだ」と言って励ましてくれた。「ゴルフで休むのはいい。その代わり、絶対に風邪で休むなよ」とも。何よりも健康が大事。卒業後も長年、先生を訪ねていたが、恩師の言葉は今も生きている。
(プロゴルファー)
プロゴルファーの中嶋常幸さんはマスターズ、全米オープン、全英オープン、全米プロの海外メジャー4大会全てでトップ10入りしています。厳しい父親の教育を交えながらゴルフ人生をたどります。