江夏豊(25)21球
無死満塁、奇跡の脱出劇 日本シリーズ決戦で「最高傑作」
1979(昭和54)年、近鉄との日本シリーズに臨んだ広島だが、大阪球場での1、2戦を落とし、苦しいスタートとなった。第2戦では七回のピンチに、山根和夫を救援した自分が打たれて負けた。
地元広島に帰って、カープが息を吹き返す。第3戦は自分が最後を締めて、逃げ切り。第4戦、第5戦は福士明夫、山根が完投、完封で制した。
王手をかけ、第6戦からの舞台は再び大阪に移った。死んだと聞かされていたおやじと会ったのはこのときだ。第6戦で広島は敗れて3勝3敗となり、第7戦の九回「江夏の21球」へとつながっていく。
個人的に大変なことがあったのに、よく投げられたものだ、と思われるかもしれない。おやじと会って、心中穏やかでない部分があったのは確かだ。しかし、自分は人より鈍いのか、ずぶといのか、いったんユニホームを着てグラウンドに出れば、ほかの事をきれいさっぱり忘れられた。
交際していた女性がキャンプ地まで追いかけてきて、死ぬの生きるのという修羅場になったときも、グラウンドでは野球に集中できた。我ながら得な性格だ。
迎えた第7戦。4-3とリードして迎えた七回途中から登板した。七回、八回と抑え、迎えた九回。先頭の羽田耕一に初球を中前に運ばれた。近鉄としては1点負けている状況で最終回。この場合、先頭打者は簡単にアウトになってはいけないから、ボールをみてくるはず。それが自分が育ったセ・リーグの常識だったが、野球の粗いパ・リーグでは通用しない。それをうっかり忘れていた。
代走が出て二盗されたときに悪送球、走者は三塁へ。四球と敬遠で無死満塁となった。あと三つアウトをとれば日本一という状況が一転、逆転サヨナラ負けのピンチだ。
絶体絶命のなか、怒りで我を失うようなことが起きた。広島のベンチが、ブルペンに池谷公二郎と北別府学を走らせたのだ。この期に及んで、俺以外に誰が投げるというのか。ぶち切れそうになった。
その心をつなぎとめてくれたのはマウンドに寄ってきた衣笠祥雄の一言だった。「おまえがやめるんなら、おれも一緒にやめるから」。
ここで誰かにマウンドを譲る以上の屈辱はない。なんなら、今ここでユニホームを脱いでやる、という気持ちを衣笠はわかってくれていた。それに自分は救われた。
近鉄は佐々木恭介を代打に送ってきた。2ストライク1ボールと追い込んでからの4球目はファウル。このあとの2球の配球は自分の投球術の集大成となる「最高傑作」だった。5球目は膝元へのボールになる直球。決め球への布石だった。見逃し方を見て、同じコースから曲がってボールになるカーブを放れば、絶対振ると確信した。空振り三振で、まず1死。
佐々木の小細工はありえず、あれこれ考えなくてもよかった。問題は次の石渡茂だ。
小細工ができ、スクイズが考えられた。ふと、近鉄の三塁コーチャーの仰木彬さんを見た。仰木さんとは個人的にも親しく、性格は知っている。マウンドからにらむと、いつもにやっと笑っていた仰木さんが、目をそらした。間違いない。スクイズを仕掛けてくる。しかし、どのカウントか……。駆け引きが始まった。
(元プロ野球投手)